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生地、織りの基本

2010.11.03 Wednesday
しばらくご無沙汰してしまいました。

私は毎日、元気で張り切っております!
しばらく忙しすぎていただけなのです、お許しくださいね。

あっという間に、すっかり冬のようになってしまいましたね。
気づけば2010年が、あと2ヶ月未満となってしまったので、驚いていますっ。

商品ブログでの補足です。
というか、こちらが本題です。

本日は、生地のお勉強です。
ブログの続きなので、特に「綾織りについて」にしましょう。
綾織りは、デニムの織りでもありますので、デニム好きな方も必読です!

が、専門的、マニアックなお話は、ここではしません。
わかりやすく、大まかに書きますよ。
基礎の基礎、少しでも皆さんが、洋服に興味を持っていただくためのキッカケ、としてお話します。
きっとこれを読む前と、読んだ後では、洋服を見る目が変わると思います。
あなたがもっと、洋服好きになりますように。


洋服は、さまざまな生地(素材、マテリアル)で出来ています。
生地には、繊維から出来ているものと、非繊維のものの2種類あります。

非繊維というのは、
一般的には洋服に適さないような金属、ゴム、陶器、紙、ガラス、石(etc.・・・キリがありません)など
や、
生き物の、皮革、毛皮、羽、骨、貝などです。

頑張れば、そういった物からからでも洋服は作れますが、
今日は一般的な「繊維や糸で出来た生地(テキスタイル)」に絞ってお話します。

糸や繊維は、天然繊維と化学繊維があります。
(以前にもお勉強しました。コチラ
それを織ったり編んだりすると、生地になるのです。

生地は、
織り物編み物その他、のどれかの方法で作られます。

その他というのは、フエルトなどの圧縮、タオルなどのパイル、網などのかがり、結んだり組んだり、多種多様です。

編み物とは、ニット、カットソーなど、編んだ物です。

織り物とは、おわかりの通り、つまり、織られた物です。



今日のお勉強は、この「織り物(織物)」の中の一つについてです。

織りには、大きく分けて4種類あります。

・平織(ひらおり、プレーン)
・綾織(あやおり、斜文織、ツイル)
・朱子織(しゅすおり、サテン)
・その他

平織とは、一番単純に、タテ糸とヨコ糸を直角に合わせ、
1本ずつ順番に交互に織っていく織り方です。
m 007.jpg
こんな感じです。
タテ、ヨコ、規則正しく、直角にデコボコになっています。
とある生地を拡大してみました。
顕微鏡レベルでしょうか(笑)


ここからが今日の本題。
綾織(斜文織とも言う)とは、デニムに代表される織り方で、少し複雑に織りますが、丈夫です。
m 005.jpg
こんな感じです。
1本づつ順番には織りませんが、規則正しいのです。
デコボコが、ナナメに走るように見えます。

m 002.jpg
もう少し遠めで見ると、こんな風に、左下から右上へ、ナナメの模様みたいにデコボコが見えます。
右上へ流れるのが、綾織の特徴です。
大体、45度くらいの角度でしょうか。

みなさんも、お手持ちのデニムを見てくださいね。
わかりにくい時は、裏側から見てください、よくわかるかと思います。m 008.jpg
こちらは、LIVI'Sのデニムの生地の、裏側です。
よくわかりますよね?
青色も、白色も、右下から左上に、柄みたいに45度ナナメになっています。
裏側からなので、左上に向かっているのです。

デニムの特徴は、ヨコ糸には「太めの白い糸」、タテ糸には「細めの紺の糸」を使っています。
ですから、ずっと履いていると、ヒザやお尻に穴が開いてしまいますが、
細めのタテ糸(紺)が先に擦り切れて、
こんな風に白いヨコ糸だけ残ってしまうんですねぇ〜
m 009.jpg
こんな時のリペアは、是非当店へ。

そして、表にタテ糸(紺)が多く浮くように、裏にヨコ糸(白)が多く浮くように織ってあるので、
表が紺、裏が白に見えるのです。


「デニム」という名前は、フランス語の「セルジュ・ド・ニーム(serge de Nîmes)」がなまったというのは、
今では有名なお話です。
英訳すると「serge of Nimes」で、ニームのサージです。

ニームというのは、南フランスにある街のことです。
では、サージとは。
綾織の一種のことで、日本語では「梳毛(そもう)綾織り」といいます。
元々は、梳毛(ウールの一種)だったりしたのでそう呼ぶのでしょうか。
現在では、繊維の種類は問わず、織り方でこう呼ぶので、
デニムは綿(コットン)ですが、サージと呼べます。

サージをわかりやすく説明しますと、タテ糸とヨコ糸の本数が同じの綾織のことです。
なので、ナナメの模様(綾目)が、45度なのが特徴です。
デニムは45度ですから、サージなのです。
ツイルと呼ばれることもありますが、薄手をツイル、厚手をサージと分けたりします。

以上をまとめますと、
『デニムというのは、南フランスで産まれた、綿サージである。
サージとは、タテヨコ同じ本数で折られた綾織のことである。』


そして2つ目の本題。
ブログにあった「ギャバジン」についてです。
もう一度、生地の拡大をよくご覧ください。
m 369.jpg
綾目の角度。
45度より、急角度です。
65度くらい?分度器がないので、正確にはわからないので、すみません・・・。
つまり、どうしてこうなっているかというと、
綾織なのですが、ヨコ糸よりも、タテ糸の本数が多いのです!
そうすると、綾目の角度が急傾斜するのです!

1880年に、バーバリーさんが、このギャバジン(綾目が急な綾織)の商標を取り、
その生地で作ったトレンチコートが大戦で使われ、
今日に至るのです。
商標登録は1917年で終わっているので、今では良く似せた生地がたくさん生産されています。
コートやジャケット、ワークウェアや学生服。。。

ギャバジンの長所は、細めの糸で、しっかり引き締めて織ってあるので、
とても丈夫で、水滴をも弾きます。
更に防水加工をしたものも、今ではポピュラーですよね。
ウール以外にも、綿素材や、化学繊維もあります。



さて、クローゼットの中を、そんな目で覗いてみませんか?
あ、これはナナメ、これは直角・・・・
な〜るほど!と、面白くなってきますよ〜

→ホームページOh là là
ファッションのお勉強

ディオール

2010.04.18 Sunday
商品ブログの方で、ちょっぴり紹介するつもりで書き始めてみたら、
長くなってしまったので、こちらに書くことにしました。

有名なデザイナーであり、ブランドでもある
「クリスチャン・ディオール(Christian Dior)」について、
少しお勉強です。

名前のとおり、クリスチャンさんは、フランス人の男性です。

コチラ、とっても有名な写真です
(この写真、専門学生の頃、教科書に出ていて、今でも脳裏に強く焼きついています)
(C)A.D.A.G.P Photo:Willy Maywald
1947年に発表された「ニュー・ルック」です。
1947年といえば、1945年に第2次世界大戦が終わって、まだ間もない頃です。
戦時中は、世界中の女性は、お洒落を制限されていました。
物資の面でも、現実的な意味でも、質素で簡素にしていました。
戦争が終わり、女性たちは、お洒落がしたくてウズウズしていました。

そこで!

まだ新人のディオール氏が発表したこのファッション!
世界中にショックを与えたそうです。

女性らしさを表現したこともそうですし、
シルエットラインは斬新でしたし、
特にスカートには、戦時中の不満を晴らすかのように、生地をたっぷりたっぷり使用したのでした。


バストの膨らみを見せている。


女性らしい、細い肩のライン。


細く絞ったウエスト。


ふんわりヒップラインを出しています。
下にペチコートをはいて、膨らませています。
生地はたっぷりフレアをとっていて、丈もヒザ下までと長めだなんて、質素の反動?
こんなゼイタクな!と、肯定派の喜びの声。


このニュールックは、世界中を渦に巻き込みました。

その後も次々と新しいシルエットを発明し、
戦後のモードを作った第一人者となったのです。

彼は、41歳でデビューし、52歳で亡くなりました。



では、年表で整理です。
今日のことがらは、ピンクの字で書き込んであります。
↓表をクリックすると、拡大します。
<表8>


Oh là là
ファッションのお勉強

旬な装い

2008.06.06 Friday
やっと、寒い日々からの開放になったのかな?
今日は暑い。
気温差がありすぎて、着る洋服に困ってしまいますね。
今日みたいな日は、半袖で軽快に過ごせますが、
2〜3日前は、セーターをひっぱり出し、長袖3枚!も着込んでしまいました。
もう6月だというのに、セーターはおかしいんじゃないか?とも思ったのですが、
自分の体調管理も、仕事のうちですからね。。。


もうすぐ夏がやって来る!
待ち遠しくて嬉しい季節の始まりに、気分だけでも・・・と、夏ファッションを着始めるのは、ウキウキ楽しくなります。
それを「先取り」と言ったりしますが、この言葉、日本のお洒落の和装から来ているんですよ?

和服のお洒落の世界では、日本の四季を楽しむというのが「粋(イキ)」なんですね。
旬の装いは、逆にヤボです。
季節の変化を待ちわびながら、それを装いで表現する。

例えば、今だったら、どんな季節でしょうか?
これは、季節や '暦(こよみ)'を敏感に感じていなければ出遅れてしまいます。
ボケっと過ごしていられませんね。
そうですね・・・今はちょうど梅雨入りしたばかりで、夏が待ち遠しい、というところだと私は感じます。
公園にはアジサイがたくさん咲いています。
「先取り」を実行するならば、アジサイや雨などの「まさに旬」のモチーフでは遅すぎるのです。
ちょっとだけ先を感じ取って、例えば梅雨明けのギラギラな夏、海開き、かき氷、ひまわり、蚊取り線香・・・などなど「暑い夏」のイメージのモチーフを少し取り入れるのが「粋」かもしれませんね。
当然ですが、赤とんぼや紅葉では先走りトンチンカンになるのであしからず。
私は和装に詳しくないので、具体的にはわかりませんが、
何を取り入れるかできっと、その人のお洒落のセンスが出るのだと思います。
暦も知っていないといけなかったり、着物や帯の格があったり、素材とかルールとかもいろいろあって、和装の世界は難しそうだけど、
四季がはっきりしている日本ならではのお洒落の楽しみ・・・とっても素敵だと思います。
(注意:例年なら、梅雨入りはもっと遅いので、6月初めならアジサイや雨のイメージが先取りになると思います。今年は気候が異常だと思います。)

洋服でも先取りの方が、もちろんお洒落です。
でも、暦が西洋とは違うので、和装とはちょっとばかりズレがあるかもしれません。
例えば今の時期なら、まさに雨の装いが良しとされます。
レインコートや、かわいいアンブレラ、レインシューズを、お洒落に取り入れるのが一番のお洒落です。
もちろん少しの先取り、夏のマリンテイストや森林のテイストをちょっぴり取り入れるのは◎です。
まちがっても、春のイメージだけは逆効果なのは、和装と同じです。

まあ、難しいルールはおいておいて、
前向きに、新しい季節、新しい明日を、両手を開いて迎えたい気分でいるならば、
自然に今日したいファッションになるんではないでしょうか?
そして大事なのはTPO。
time,place,occasion。
時と場所と場合(目的)に合っていて、更に自分らしさをプラスしたなら、絶対にお洒落さんになれるはずです♪
流行だけがファッションでは無いことを、お忘れなく!

(でもそうかといって、病気になっては仕方が無いので、いくら6月でも、寒かったら私はセーターを着ますよ)

Oh là là
ファッションのお勉強

忍者のファッションとは?

2008.03.08 Saturday
テンション上がりまくりの忍者体験でしたが、
やっぱり気になるのは、ファッションのコト。

忍者のイメージは、
忍者ハットリ君みたいなのかな?
サスケは裸だったけど。
甲賀の里忍術村にて

こちらの博物館には、当時の忍者の装束が展示されていましたが、
スタッフの方のお話によれば、
特に決まった「忍者服」というのはなかったそうです。
この写真は、実際は「野良着」で、
いわゆる一般的な、農作業用の服なんだそうです。

つまり、短い着物と、もんぺ。

普段は忍者と気づかれないように、農民として暮らしていた場合は、
こんな野良着のまま、忍びの仕事をしていたんだそうです。

野良着の下に着ている、メッシュの・アミアミの下着は、
実際は「鎖帷子(くさり かたびら)」であって、
ヨロイの役目をしていましたが、
現実に、あんなに重い物を身につけて、ジャラジャラ音を立てていては、
身軽に動けませんでしたから、
ほとんどの場合、付けなかったそうです。

イメージと実際は、かなり違ったようなんですねー。
本当に勉強になりました。

頭を覆う頭巾も、実際はしなかったそうですし、
黒に見える野良着も、実際は藍染めで、深い紺色でした。
(一般的には柿色が好まれたようですが、甲賀の水質は、藍染めに適していたそうです)

ただし、これは、農民を装った忍者についてです。
武士や商人として生活していた忍者は、つまり、そのままの格好で「忍者」をやっていたんですって!

年表で整理です。
忍者は、主に戦国時代に活躍したといわれています。
アニメの忍者ハットリ君は、伊賀忍者「服部半蔵」の子孫。
サスケは、甲賀忍者です。
今日のことがらは、ピンクの字で書き込んであります。
↓表をクリックすると、拡大します。
<表7>

Oh là là
ファッションのお勉強

ファッションと歴史のお勉強■5

2007.10.12 Friday
さてさて、今回は、「どうやって洋服ができたか」の第2回目です。

中世という事で、11世紀〜15世紀を見ていきます。

中世といっても、昔すぎてあまりピンとこないかもしれませんね。
確かに、ファッションの歴史の中では、特に華やかでもありませんでした。
なぜなら、戦の時代だからです。
小さな民族ごとの生活だったものが、隣の地域、そして遠くの国まで領土を拡大したくて、ヨーロッパは戦いの日々でした。

そこでまず重要なのは、女性の服装は、男性の流行を真似ていたということです。
この辺りの時代は、暗黒時代ともよばれていて、国を取ったり取られたり・・・戦が続きます。
権力もファッションも、主役は男性の時代でした。

ここでは、ファッションを中心に見ていくコーナーなので、
フランス中心にお話を進めていきますが、
先に書いたように、まだ各国が安定していないので、
簡単に他の国の事も交えていきます。

前回と話が重なりますが、
中世の本題に入る前に、フランスができるまでを知りたくなりました。
ヨーロッパを舞台にしてザッと
先に見てみましょう。

ローマ帝国は、現在の地中海一帯と、ヨーロッパ一帯と、イギリス(ブリタニア)までを支配していて、すごい帝国でした。
青い線で囲んだところ全部です!
(赤は、フランスと日本)
もちろんその頃、ローマ人以外にも、各国には、原住民がいました。


原住民の名称は、ローマ人がつけました。
例えば、フランス辺りのケルト系を含む「ガリア人」、
イギリス辺りのケルト系の「ブリトン人」、
ドイツ辺りを「ゲルマニア」と呼んでいたので、その辺りの人を「ゲルマン人」、
その他、たくさんの民族がいました。


特に「ゲルマン人」は、パワフルで強くて、いろんな国へ進出していって、
ついにはローマ帝国を追い詰めました。(ローマ帝国滅亡)
これが「ゲルマン民族の大移動」です。
フランスに住み着いたゲルマン人の一部は、ガリア人と一緒にフランク人となり、フランク王国を支配しました。
南イギリスに住み着いたゲルマン人の一部は、ブリトン人と一緒にアングロ・サクソン人となり、
南イギリス(イングランド)を支配しました。


8世紀には、北欧に住む原住民たちが、海賊(ヴァイキング)となって、
ヨーロッパに進出してきます。

特に、デンマークの「デーン人」は、イギリスやフランスに住み着き、支配するまでになります。
フランク王国では、北フランスを荒らしまくり、見かねたフランク王国の王は、ノルマンディーを差し出し、
デーン人は北フランスにノルマンディー王国をつくり、住みつきました。
そして、ノルマンディーは、イングランドまでも制服してしまいました。
つまり、イギリスも、フランス的な文化になったのでした。
海賊強し。
この時のノルマン朝は、ブルボン家まで続きます・・・。


1337、百年戦争が始まり、イギリスとフランスが戦争になります。
始め、イギリスが強く、ジャンヌ・タルクの活躍で、フランスも巻き返します。
結果は、ノルマンディーはフランスに戻り、イギリスとフランスという国ができました。

戦いばかりの中世ヨーロッパは、なんだか、日本の戦国時代のようですね。
ちなみに日本の戦国時代は、もうちょっと後で、1491〜1573年です。
その時代のヨーロッパは、大航海時代で、
アメリカ大陸を発見して、スペイン人がアメリカを植民地にしていった時代です。


と、ザッと流れをみてきました。
さて、本題の、ファッションです。
元々の原住民に、ファッションがあったかはわかりませんが、
男女とも、簡単なスカートやポンチョだったと思います。



注目は、勢いのあった「ゲルマン人」です。
彼らは、馬に乗って戦うための服装をしていました。
ローマ人の、スカートに対し、
ゲルマン人は、ズボンなのです!
正確に「ズボン」とは、まだ言えないとしても、
足の部分が二つに分かれているというのは、画期的でした。
そして、マントをしていました。

その後はローマ人も影響を受け、チュニックにズボン(?)にマント、というようなファッションになります。
女性も長いワンピースですから、チュニックが変化したのでしょうか?
袖という形もできてきました。



それから、ヴァイキングのファッションも見逃せません。
アニメの小さなバイキングビッケが参考になります。
強い海の男たちは、ツノの付いたカブトをかぶり、ズボンはヒモ(脚絆のように)で巻いてあります。
ディズニーランドのカリブの海賊とは、時代が違いますのでご注意を。
あちらは、もう少し後の時代で、ファッションも全然違います。
北欧のヴァイキングは、元々農業や漁業を本職としていて、とても手先が器用で、
すぐれた職人でもあったそうです。
漁業の延長線で、海を旅したのかな?



百年戦争の頃には、「よろい」ですね。
ジャンヌ・ダルクも、よろいを着て戦いました。
そして、初めて「ボタン」というものができた時代でもあります。

と、こんな感じで、なんとなく「洋服ぽい」形になりました。
今も私たちは、この時代の原型が進化した服装をしているのですね。
なんて原始的なんでしょう。
テクノロジーは魔法みたいに進化してきたのに、
衣服の形は、素材以外は大して変わっていないと思うのは、
私だけでしょうか?

毎度、私の口癖ですが・・・衣服って、アナログだなぁ。

今回も、早足で、歴史の流れを見てきました。
やっと洋服ができてきましたね。
でもまだ「なんとなく」で、原型なのです。
日本人もまだ洋服を見たことがない時代でした。
次回は、西洋ファッションの歴史で一番華やかな、近世(16世紀〜)です。
やっと洋服ができるのです!
お楽しみに〜♪

※画像の地図は、高校時代に学校で使っていた地図帳。
 内容は古いけど、現役です!
 私って、物持ちいいわねー。

では、年表で整理です。
今日のことがらは、ピンクの字で書き込んであります。
↓表をクリックすると、拡大します。
<表5>

Oh là là
ファッションのお勉強

ファッションと歴史のお勉強■4

2007.09.01 Saturday
さて、今回は、「どうやって洋服ができたか」の第1回目です。

まずは、歴史を古い順にざっと見ていきたいのですが、
そうなると、人間は、いつどこから来て、どこの国から発展していったか、
というところから調べていかないといけません。
これでは考古学になってしまいますし、現実に、何千年前とかの資料や証拠は、今でも専門家でさえ研究中ですから、
その分野は残念ながらこの場では勉強しません。
本当は、私もとても興味があるのですが。。。

最初の日本人は、どこかの国から日本まで流れてきたのか、
それとも日本にも最初から人間が住んでいたのか、
そもそも最初っていつなのか、
やっぱり神様が創ったのか、それとも猿が進化したのか。。。
この問題は、宗教にもかかわってきますし、実際に今でも謎なので、
「お勉強」のカテゴリともリンクしながら、ファッションと歴史をからめて勉強していきます。

ということで今日は、紀元前〜紀元後10世紀までです。

今のところ一般説では、最初の人類は、紀元前5千年(9千年という説もあり)に今のイラクから発祥した事になっています。
今から7千年も前の事です。
イラクといえば、首都はバグダッド。
例えていえば、世界で一番古い国(文明)です。
もしかしたら、イラク人がその頃、日本に渡ってきたりもしたのかな?
日本人の祖先なのかな?
どうなんでしょう?(今だ謎なのです)

イラクの場所は、中東。

がイラクです。
ヨーロッパの南で、アジアの西で、アフリカの東です。
近隣には、エジプト、イラン、トルコ、などがあります。
は日本とフランスです。
面積は、日本より少しだけ大きい。

さて、この現イラクでは、その7000年前に「メソポタミア文明」という世界最古の文明があり、
その服装は、ハダシで、体に布を巻きつけていました。
その後、いろんな装飾品も身につけますが、基本的には、服というより布のようなものでした。
このころの衣類は、まだ発掘された事が無いので、壁画などからの想像です。
想像しやすいのは、アダムとイブの「エデンの園」。
これは本当にイラクにあった場所なんですよ。

次に有名な文明は、紀元前3千年前の「古代エジプト文明」。
今のエジプト・アラブ共和国での文明です。
ここでも衣服は布などを体に巻きつけていました。
エジプトといえば、ピラミッドやスフィンクスが有名ですが、今から5千年も前にそんな物が作られたなんて、驚きですね。
宇宙人説も一理ある。
ファッションももっと発展しててもおかしくないと思うのですが。。。

そして同じ頃、インダス文明(インド)、黄河文明(中国)、ペルシア文明(イラン)、エーゲ文明(ギリシャ)などなど、
たくさんの文明がありましたが、衣服といえば、皆、体に布を巻いたようなものでした。

その後、西暦0年を通過して、
5世紀頃、ゲルマン民族の大移動です。
ドイツの方から、ゲルマン人(遊牧民?)が、ローマ帝国に南下してきます。
そして古代は終わります。

さて、ここからは、西洋に注目していきます。
西洋では、はじめはギリシャ、
そしてローマ帝国(イタリア)ができ、滅亡すると、西ヨーロッパはフランク王国となります。
フランク王国は、後にフランス・ドイツ・イタリアに分かれます。
それが10世紀のはじめ頃です。

イラク ■フランス ■ギリシャ ■イタリア ■ドイツ

この頃も、とくに洋服の形はまだ無く、布を巻いているか、ポンチョのようにかぶったり、スカートのようなものだけがメインでした。

さて、11世紀に入ると、少し洋服っぽい形になってきます。

早足で見てきましたが、
次は、中世です。

では、年表で整理です。
今日のことがらは、ピンクの字で書き込んであります。
↓表をクリックすると、拡大します。
<表4>

Oh là là
ファッションのお勉強

ファッションと歴史のお勉強■3

2007.08.24 Friday
前回は「日本人はいつから洋服を着ているのか」を見ていきましたので、
次は「洋服ができたのはいつなのか」についてお勉強したいと思います。

が、洋服の歴史を書くと、とても長くなってしまうので、このテーマは数回に分ける事にします。

今日はまず、日本人が、正式に洋服を取り入れた時、それはどんな洋服だったかを知らなければなりません。
それは、1871年の明治天皇の命令がきっかけだとしたら、
その服装を「日本での最初の洋服」としましょう。
その後の日本は、世界と足並みをそろえて、洋服の歴史に参加していくので、今日は「世界の1871年〜1886年頃の服装
(つまり、1800年代後半)のお勉強です。


その明治天皇の「洋服」というのは、これです。
神奈川県立歴史博物館 撮影:内田九一
軍服です。
有名な肖像画で、当時は一家に一枚飾られていました。

もう一枚、
wikipediaより
こちらは大久保利通で、モーニングに、シルクハット。
両方とも、現代から考えると、固い、かしこまった服装です。
理由は、正式な場に出席するための服装だからです。
日本が鎖国を解いて、外国と同等の立場で外交するための、
フォーマルな装いだからです。
もちろん諸外国も、こういった服装でした。

ちなみに、女性はどんな洋服を着ていたのでしょうか。
1886年に、女性にも「婦人服制」というのができたのですが、
実際に洋服を着たのは、上流階級のご婦人だけだったのではないでしょうか。
つまり、鹿鳴館での外交や、接待のためだけに着ていたので、男性同様、フォーマルな装いでした。
男女共、やはり普段は和服だった事を、ここに付け加えておきます。

女性の「洋服」の一例として、明治天皇皇后の装いを見てみます。
wikipediaより
ちょっとわかりにくいですが、フォーマルなドレスで、いかにも王女様という感じです。
他の貴婦人は、もっとわかりやすいので見てみましょう。
貴顕舞踏の略図 画:楊州周延
鹿鳴館での男女です。
スカートの後ろにバッスルを当ててふくらませた、クリノリンドレス、
大きく結い上げたヘアスタイルに、小さな帽子をのせています。

男性、女性とも、きっと着るのにも脱ぐのにも、時間がかかったことでしょう。
そして、とても肩の凝る、疲れる物だったことでしょう。


では、その頃の西洋は、どんな装いをしていたのでしょうか?
ヨーロッパの男性は、日本同様、モーニングにシルクハットです。
もちろんこれはフォーマル用です。
普段着に和服ではないはずで、普段着が気になります。
が、想像と違って、フォーマルとあまり変わらない、フロックコートやジャケットに、スラックスです。
Henry madden library,California
普段着でも、けっこう固い服装ですね。
男性のファッションの一番大事なきまりは、TPOで着替える事だったそうです。
多少の違いですが、一言でフォーマルといっても、正式、略式、昼用、夜用と、細かい違いがありました。
現代でも着れそうなのは、スポーツ用の服で、ニッカーボッカーや、ハンチングや、カンカン帽などもありました。
この時代の男性のファッションを一言で言えば、ヨーロッパもアメリカも、イギリスの紳士風=ダンディ風という時代でした。

では、女性のファッションはどうでしょうか?
Full-Colored Victorian Fashions 1870-1893:Joanne Olian
やはり日本同様、クリノリン・スタイルです。
女性は、それまでもずっとコルセットを付け、ボリュームのあるスカートをはいてきました。
この頃は、後ろだけに枠組みをつけて、前に膨らみはありません。

ヨーロッパの服装を、アメリカや日本は真似ていました。
つまり、1871年頃の表舞台は、日本も西洋とほとんど同じファッションになったという証拠がそろいました。
その他の国はというと、現地の民族衣装(一般の日本人が和服を着たように)だったと思われます。

では、年表で整理です。
今日のことがらは、ピンクの字で書き込んであります。
↓表をクリックすると、拡大します。
<表3>

次回は、1871年より前の西洋では、どうやってこのような洋服ができたか、です。

※画像はイメージです。

Oh là là
ファッションのお勉強

ファッションと歴史のお勉強■2

2007.08.03 Friday
そもそも、日本では西洋式の「洋服」というものを、いつから着ているのか?
というのが今日のお勉強です。
洋服を着る前は、着物だったという事くらいはわかりますけどね。
答えから言えば、1945年からということになります。
まだたった62年しか洋服を着ていないなんて!えっ、本当?!


ここから先は、着物の事を「洋服」に対して「和服」と呼ぶ事にします。
和服から洋服への移り変わりに注目してみますので、今日は江戸時代からを見ていきます。

江戸時代までは、日本人はみんなが和服を着ていました。

江戸時代という時代、日本は238年も鎖国をしていました。
外国からの輸入品はほとんど町にはありませんでした。
つまり、日本製だけの時代で、一番日本らしい時代かもしれません。
輸出も禁じられていたので、他の国では見ることができない日本だけのものが、日本の中だけで流行していました。
ファッションも日本独自のスタイルでした。

しかし、歴史が大きく動き始めます。
1858年、鎖国を解いて開国したのです。
ファッションについても、とても重要な年です。
外国からどんどんいろんな物・文化が入ってくることになったのです。
そうです、正式に、洋服が大量に日本に入ってきたのです。
まだ飛行機ではない時代、船で海を渡ってきた輸入品は「舶来品」と呼ばれました。
初めて見る舶来品!
なんだか、その時の日本人のトキメキが、手に取るようにわかります。
でも、あまりにも見たことがない物に対して、すんなり受け入れたくない人もいた事でしょう。

開国から14年後・・・
明治という時代が訪れます。
日本を治めていた江戸幕府がなくなり、天皇が主導権を握る事になりました。
日本からサムライが消えた時でもあります。
県という呼び方に変えた、廃藩置県。
ここで初めて東京ができました。
すべてが新しい時代の幕開けです。
これを明治維新といいます。

この時代では「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という言葉が有名です。
ザンギリ頭とは、それまでの和服スタイルのちょんまげや、結い上げた長い髪を、洋服スタイルに合わせて短く切ったヘアスタイルのことです。
つまり、西洋スタイルをいち早く取り入れた人は時代の先端を行っている、新しい、ススんでる、と見られました。
西洋から届いた、初めて見るいろんな新しい事を、もう恐れずに受け入れ始めた時代です。
ただ、舶来品はかなり高額だったため、庶民にはまだまだ手が届かなかったのが現実です。
まず先に、好奇心の強い人やお金持ちの人だけが、少しづつ洋服を着始めたところです。

明治になって3年後、国の主役になった明治天皇が、表舞台用にと、自分の服に洋服を命じました。
このことは、洋服を正式に社会に認めさせる事に拍車をかけました。

これが大体、今から140年くらい前のことです。

1887年、現代の高校生にあたる男子の制服が初めてできました。
軍服を参考にした学生服(詰め襟の学ラン)です。
女学生の制服ができたのはその10年後くらいですが、まだ洋服ではなくて、和服にハカマでした。

明治が45年で幕を閉じると、次は大正です。
大正時代には、ペストの流行で、裸足が禁止になり、庶民も子供も下駄をはくようになりました。
1923年の関東大震災、
1927年の白木屋の火災、
などの事件があって、ようやく庶民も少しずつですが、洋服を着るようになりました。
このような震災で、和服より洋服の方が逃げやすいという事が実証され、みんなの共感をよびました。

1920年を過ぎると、女学生も、セーラー服の制服ができました。
つまり、太平洋戦争の前くらいには、多くの人が洋服を着るようになったのです。
都会では、モダンガールやモダンボーイが、西洋人と変わらないファッションをしていましたが、
家へ帰れば和服に着替えてくつろぐという生活で、まだまだ洋服は、日本人には「特別」な衣類だったみたいです。
それが80年くらい前になります。

15年間という短い大正時代の次は、昭和がやってきます。

1941年〜1945年は、第二次世界大戦でした。
戦争中は、資源が乏しく、いろいろなものが配給制になりました。
男性は、国民服という、カーキ色の軍服のような洋服を着ました。
これを国民服と呼びます。
女性は、着物をリメイクした和装のモンペをはきました。
食べるものも無い時代なので、あるものを着るしかなかったかもしれません。
しかし、戦争が終わったとたん、急速に洋装化していきました。
ほとんどの日本人が、洋服を着るようになったのは、1945年からなのです。
それが62年前です。

と、まあ、ざっとおおまかに見ていきましたが、こんな感じです。
皆さんもよく知っている歴史だとは思いますが、もっともっと知りたくなってきませんか?

たった60年くらいしか、洋服を着ていないなんて、
やっぱり、洋服の歴史は、西洋にはかなわないわねー、と思いますよね。

いえいえ、洋服の歴史=ヨーロッパのファッションの歴史で、今のような「洋服」というものができたのは、12世紀頃だそうです。
その前は、布を体に巻きつける、あのギリシャ神話のような服装だったのです。
12世紀のファッションといっても、まだへんな形で、
ようやく「洋服」といわれるような形になったのは16世紀です。
16世紀といえば、じつは、1543年に、ポルトガル人が種子島に漂着しました。その時に、日本に洋服が渡っているのです。
港近くの人たちは、その頃から洋服を着始めています。
鹿鳴館でのドレスや西洋のモードを、日本のお金持ちの人たちは、リアルタイムで着ていたのです。
つまり、洋服の歴史は、日本でも実在したのでした。
ただ、洋服をデザインしたのは西洋人だけですから、日本人は着ただけですが、洋服を知らなかったわけではないのです!

それは一部の上流階級の人だけだったかもしれませんが、
洋服の歴史としては、日本も西洋とさほど変わらないという事になるのです。

こうやって勉強していくと、
日本も西洋に負けていない、すごい!
という事がわかってきました。おもしろい〜!
でも・・・NO,NO,NO!
和服の歴史に比べたら、まだまだぜんぜんです。
しかも、今でこそ、和服より洋服の方がだんぜん多いですが、
和服のあの華やかでファッショナブルな時代に比べたら、
洋服の歴史なんて、浅いものです。

最近では「日本の若者は、世界で一番お洒落」だと言われていますが、
それは当然なのです。
洋服という事にこだわりをなくせば、ファッションという事については、西洋より日本の方が、遥かに歴史が深く、華麗だったのです。
西洋の洋服が高価だった時代は過ぎ、今は思う存分、そのファッションの感性が表現できる時代です。
大昔からの日本人の、素晴らしいファッション感覚を、この恵まれた時代に、やっと世界に見せつけたと思うのです。

もっと詳しい事は、また次回に・・・。
年表で整理です。
今日のことがらは、ピンクの字で書き込んであります。
↓表をクリックすると、拡大します。
<表2>

Oh là là
ファッションのお勉強

ファッションと歴史のお勉強■1

2007.07.24 Tuesday
うわぁーーー!
やっとできました!
お疲れさまでした!
本当に疲れましたっ!

独断と偏見で、私の自己満足の視点で見た「ファッションの歴史年表」を作りました!
以前こちらで予告していましたが、こんなに時間が経ってしまいました。。。
パソコンは難しいですねー。
でも何とか表になりました。

ファッションのお勉強は、歴史の時代背景と深くリンクしています。
なので、学校で教えてもらえなかった(教えてもらっても忘れてしまった)歴史と一緒に、
この「ファッションのお勉強」のカテゴリの中で、少しずつファッションを勉強していこうと思います。
私は大学には行っていませんので、初歩の初歩からです。
頭の良い皆さんも、復習だと思って楽しくご覧下さい。

とりあえず第1回目の今日は、忘れてしまっている時代の、大ざっぱな流れを表にしてみました。
この表が、今後のお勉強の元になりますので、保存版です。
表をクリックすると、別窓で開きます。
<表:基本>


さて、ざっと時代の流れがわかったところで、
その表に、私の脳ミソの中を付け加えてみました。
絶対に誰もが知っているであろう人などを配置してみました。
これで大体の時代のファッションがなんとなく見えてきます。
文字ばっかりですが、想像をふくらませてくださいね。
表をクリックすると、別窓で開きます。
<表1>


今日はここまでです。
これからこの表に、どんどん書き込んでいくのです・・・ゆっくりですが・・・
お楽しみに〜♪

Oh là là
ファッションのお勉強

ネイティブ

2007.06.29 Friday
前回の続きになりますが、
その土地にしかない、本物の空気・歴史・文化というのは、価値のある物だと私は思います。

それは「ネイティブ」とも言えることができます。

「native」を辞書でひくと、
形容詞:出生地の、自国の、土着の、生まれつきの
名詞:〜生まれの人、原住民、土着の動植物

私は、日本生まれの、日本原住民なので「ネイティブ・ジャパニーズ」であります。
主に日本語を話し、日本で生活し、日本式の生活をしています。
自分自身で意識していなくても、日本の歴史の上に生きて、日本の文化の上に生きています。
外国人は、私を「日本人」と認めます。
「日本人」という民族です。

さて、これをふまえて、ファッションのお勉強をしてみましょう。

「ファッションでは、西洋にはかなわない。
なぜならそれは、モードはパリから発信されている。」
という先入観を、誰もが漠然と持っているかと思います。

確かにそうなのかもしれませんが、このあまりに決まりきった観念に、
私はずっと疑問を持っていました。
どうしてパリが一番なのか。
ニューヨークや、ロンドンや、ミラノや東京からも、たくさんのモードが生まれているし、何をもってして、パリが一番なのか。

歴史をひもといていくと、その理由がだんだんとわかってきました。

詳しい歴史のお勉強は、また次回にしますが、
つまりは、私の考えはこうです。

洋服というのは、民族衣装なのです。
日本の民族衣装が着物だとしたら、インドはサリー、ベトナムはアオザイ、
アメリカだとインディアンファッション、韓国はチマチョゴリ・・・
そしてフランスが、現代用語でいうところの「洋服」なのです。

ひとことで「フランス」といっても、昔むかしのフランスは、今のヨーロッパ中がフランスといってもよいくらいを支配していましたので、正しくは「ヨーロッパの民族衣装=洋服」ということになります。
漢字でわかるとおり、西洋の服=洋服、という事です。

第二次大戦後から、私たち日本人も、そして世界中の先進国のほとんどの人が、洋服を着る事になりました。
洋服という衣服が、世界共通の衣装になったのでした。
洋服を着始めてしばらくは、当然ですが、西洋を見習う着こなしが続きます。
つまり、フランスの首都、パリから発信されるモードが、流行の最先端になるわけです。

今でこそ、世界のいろいろな都市から、新しい流行が生まれ、ストリートファッションとして注目されたりしていますが、
洋服が生まれた国、ヨーロッパ=フランスが一番ネイティブなのが、やっと理解できました。

あと何千年かたてば、日本の洋服も、民族衣装になったりするんでしょうかね?

余談ですが、戦後はファッションだけでなく、衣・食・住、さまざまな文化が急速に共通化していきます。
日本人も、パンを主食にします。
とくに学校給食では、パン食でした。
音楽も、アメリカのJAZZやロックンロールが世界中に流行しました。
各国の民族的なものが、だんだんと後ろに下がっていってしまいました。
なんだか、みんな同じって、つまらないですよね?
最近では逆に、もっと民族的な文化を大切にしようとする動きが増えているのも現実です。
和服をお洒落に着こなす日本の若者の中には、無意識だとしても、
民族を意識する「血」が騒いでいるのではないか、と私は考えています。
それはとても価値のあることで、本物ですから、とても良く似合っていると思います。
フランス人に、やっぱり着物は似合わないと思います。


という事で、今日のお勉強のまとめは、
洋服というファッションの本物は、フランスである。

Oh là là
ファッションのお勉強